企画展のご案内

開催中の企画展

斎藤清の一作品からはじまった、
ノーマン・トールマン氏のコレクター人生「ザ・トールマン コレクション」展。
世界初公開。

2018年9月15日(土)〜11月25日(日)

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世界でも指折りの現代美術蒐集家、ノーマン・トールマン氏。
1967年、当時アメリカ外交官だったトールマン氏は、斎藤清のある一枚の作品を探し求めて画廊めぐりの日々。
しかし、なかなか見つからず、その作品名も定かでなく、その構図、造形イメージだけが頼りでした。
「ムリかなぁ、欲しい版画はあの作品と決めているのだが・・・」

そんな中、奇跡的シーンが目の前に。
AKASAKAのとある画廊から帰る間際、そこに偶然やってきた斎藤清と初遭遇 ──。
もし、1、2分でもずれていたら、二人は永遠に出会えなかったかもしれません。

本展では、斎藤清作品との出会い、二人の30余年にわたる知られざる交流、
さらに棟方志功の作品など、トールマン・コレクションの全貌を世界初公開します。
●特別協力:ザ・トールマン コレクション
●休館日:開催期間中は休館日はありません
●観覧料:一般700円 (600円) 高•大学生500円 (400円) 中学生以下無料
※( )内は15名以上の団体料金

最近の企画展

台湾コネクション – 版画/蔵書票がつないだ、「台湾X斎藤清」展開催。

2018年7月22日(日)〜9月9日(日)

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「蔵書票」とは、本の表紙裏に貼付して、その本の所有者を示す小紙片のこと。
国際的には、Exlibris/エクスリブリスと称される。
日本では、明治時代以降、当時活躍していた版画家たちによって、木版画や銅版画などでこの蔵書票が手掛けられ、美術コレクションの対象にもなった。
わずか10センチ四方のサイズながら、その美しさは、まるで紙の宝石。
版画/蔵書票がつないだ、「台湾X斎藤清」展では、斎藤清の希少な蔵書票をはじめ、会津出身の文学者 西川満が台湾に持ち込んで、現地で大ブームとなった貴重な蔵書票もあわせてご紹介。
── 「蔵書票」が育んだ日本と台湾の交流もお楽しみください。
●主催:斎藤清美術館、国立台湾文学館

最近の企画展

プラチナ・モダーン – 斎藤清「雲母 きら 」展開催。

2018年4月21日(土)〜7月16日(月)

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雲母 – 「うんも」あるいは「きら」と言う。
ガラスのようにキラキラ光り、この不思議な鉱石に人は古来より魅せられた。
斎藤清は、この雲母に独自の工夫を凝らした版画家のひとり。
例えば、雲母を細かく砕いて、銀鼠のような淡い光沢を創出したり、硬質な輝きを放つ黒、青、白などに仕立てたり。
こうした摺り技法は、斎藤清の大胆なモダニズムの構図に、独特の質感と厚みをもたらした。
これが斎藤清の「雲母(きら)摺り」、別名プラチナ・モダーン。

最近の企画展

2017年20周年記念、特別企画「The Style – EPISODE 1」開催。

11月03日(金・祝)〜2018年1月28日(日)

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アメリカに愛された画家、斎藤清。

戦後間もない1950年代、アメリカを熱狂させた日本人画家がいた。
その名は、KIYOSHI SAITO ─ 斎藤清。
当時日本に駐留していたアメリカ人やその家族から広がった彼の人気は、
1951年のサンパウロ・ビエンナーレ展での、戦後日本人初となる国際展受賞をきっかけに不動のものとなった。
戦後もっとも売れた版画家と称され、アメリカ各地に熱烈な愛好家が生まれた。
「アメリカ人は、私のよき理解者だ」。
「それまで、あまり旅行をすることはなかったが、アメリカ人は京都や奈良の素晴らしさを教えてくれた」と、斎藤清。

なぜ、斎藤清は、アメリカで熱狂的に迎えられたのか?
アニバーサリー特別企画展「ザ・スタイル」では、アメリカから寄贈された初公開作品や手紙などを通して、その軌跡をたどる。

2017 特別企画展

2017年20周年記念、特別企画「ムンク×斎藤清」展~70余年の時を超えて~

2017年、斎藤清没後20年、斎藤清美術館開館20周年。
いよいよ、アニバーサリー・クライマックスです、
10月7日(土)から10月29日(日)まで、特別企画「ムンクX斎藤清」展が開催。
これは、東北初のムンク版画展でもあり、
現地ノルウェーや福島県内外から多くの方々のサポートがあってはじめて実現できた企画展です。
秋の斎藤清美術館で、お会いしましょう。

ムンク作品を模写し、西洋近代技法はムンクに学んだ。
1940年前後、斎藤清30代前半、美術誌を通して出会ったノルウェーの画家&版画家エドヴァル
ド・ムンクの作品。特に、ムンクの代表作『病める子』や『マドンナ』、『叫び』などを手本に
模写し、光の明暗、濃淡など、西洋近代技法を先人に学んで、自分の絵を作り上げようとしまし
た。
しかし、単に先人から西洋近代技法を吸収しようとしただけではなく、ムンクの作品を通して改
めて自らの志向、方向性を再確認していたのではないでしょうか。
複雑なモチーフでも画面処理上ではマッス(塊)として描いていることへの同質感、同志感、憧れな
ど、模写という言葉だけでは言い尽くせないムンクへの深い思いも感じられます。

国際展受賞後、ムンクへ「トリビュート」。そして、世界へ。
1951年、第1回サンパウロ・ビエンナーレ展に木版画『凝視 (花)』を出品し、戦後日本人初となる
国際展を受賞しました。
「国際展ということもあって、私の絵がいくらか有利であったとすれば、それは自然にひかれて
いったムンク、ゴーギャン、ルドンの影響ゆえかも知れない」と、斎藤清。
翌1952年、斎藤清は、ムンクへのトリビュート(感謝)として、ムンク作品と同じタイトルの作品
『嫉妬』を発表しました。
受賞を機に、世界各地の国際版画展に招待出品を重ね、海外との交流も深まっていきました。
そんな中、アメリカの友人たちのすすめもあって、京都や奈良、さらにパリなどを描きはじめ、
国内外を旅しながら、世界の街の中から唯一無二の「構図」を切り取って作品化し、独自のモダ
ニズムへと傾倒していきました。

ムンクと再び向き合って、抽象の「先」を見出そうと。
1950-60年代、世界の美術界の主流が抽象表現だった中、斎藤清はその体現者として駆け抜けま
した。
しかし、1960年代半ば、京都などを描いた自らの抽象表現に懐疑的になり、深刻なスランプに陥っ
てしまい、
「ああ、こんな絵を描いていて、一体俺はどうなるんだろうと思ったら、急に描けなくなった。
こわくて、三ヶ月間アトリエにも入れなかった」と、斎藤清。
そんな時です、エドヴァルド・ムンクの作品と再び向き合うことになったのは。
1940年代前後、若き日に描きためたクロッキー、そこに描かれていたもやもやとした描線、ムン
ク作品を模写したデッサンの数々、これらがスランプ脱出のきっかけとなりました。

ムンクを通して、新しい斎藤清を見つけてください。
1960年代後半、若き日のクロッキーを通して、ムンクと再び対峙し、それまでの抽象化の過程で
は当たり前のように切り捨てていた線や線の重なり、影などの見直しを試みました。
その結果、風景や事物の中にある精気、あるいはそこに息づく人々の思いなどをすくい取ること
を見出して ──。
斎藤本来の「単純化」と「構図」、そこにこうした対象の「内面性」をどう描こうとしたので
しょうか。
例えば、『会津の冬(71) 若松』。
「この絵は好きなんだ。寂しげだろ。静まりかえっている」と、斎藤清。
「単純化」と「構図」に、「寂しげ」という感情が矛盾なく一つの画面に同居した、自らが一つ
の到達点とした作品です。

『病める子』をはじめ、【生命のフリーズ】のコア作品を展示。
斎藤清が模写を繰り返した1894-96年制作の版画『病める子』を中心に、
この作品と同時期に制作されたムンクの数々の版画作品にフォーカスすると、自ずと、『マドンナ』『接吻』『ヴァンパイア』、さらに『叫び』など、ムンクの代表的連作【生命のフリーズ】が視界に入ってきます。

1890年代、三十代のエドヴァルド・ムンクは、油彩画【生命のフリーズ】に取り組みながら、ほぼ同時に版画【生命のフリーズ】にも着手しました。版画版【生命のフリーズ】は、日本ではほとんど知られておりません。

2017年10月7日(土)、アニバーサリー特別企画「ムンク&斎藤清」展では、
『病める子』と同時期に制作された代表的版画作品と、【生命のフリーズ】連作版画のコア作品を展示します。

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