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2017年20周年記念、特別企画「ムンク×斎藤清」展~70余年の時を超えて~

2017年、斎藤清没後20年、斎藤清美術館開館20周年。
いよいよ、アニバーサリー・クライマックスです、
10月7日(土)から10月29日(日)まで、特別企画「ムンクX斎藤清」展が開催。
これは、東北初のムンク版画展でもあり、
現地ノルウェーや福島県内外から多くの方々のサポートがあってはじめて実現できた企画展です。
秋の斎藤清美術館で、お会いしましょう。

ムンク作品を模写し、西洋近代技法はムンクに学んだ。
1940年前後、斎藤清30代前半、美術誌を通して出会ったノルウェーの画家&版画家エドヴァル
ド・ムンクの作品。特に、ムンクの代表作『病める子』や『マドンナ』、『叫び』などを手本に
模写し、光の明暗、濃淡など、西洋近代技法を先人に学んで、自分の絵を作り上げようとしまし
た。
しかし、単に先人から西洋近代技法を吸収しようとしただけではなく、ムンクの作品を通して改
めて自らの志向、方向性を再確認していたのではないでしょうか。
複雑なモチーフでも画面処理上ではマッス(塊)として描いていることへの同質感、同志感、憧れな
ど、模写という言葉だけでは言い尽くせないムンクへの深い思いも感じられます。

国際展受賞後、ムンクへ「トリビュート」。そして、世界へ。
1951年、第1回サンパウロ・ビエンナーレ展に木版画『凝視 (花)』を出品し、戦後日本人初となる
国際展を受賞しました。
「国際展ということもあって、私の絵がいくらか有利であったとすれば、それは自然にひかれて
いったムンク、ゴーギャン、ルドンの影響ゆえかも知れない」と、斎藤清。
翌1952年、斎藤清は、ムンクへのトリビュート(感謝)として、ムンク作品と同じタイトルの作品
『嫉妬』を発表しました。
受賞を機に、世界各地の国際版画展に招待出品を重ね、海外との交流も深まっていきました。
そんな中、アメリカの友人たちのすすめもあって、京都や奈良、さらにパリなどを描きはじめ、
国内外を旅しながら、世界の街の中から唯一無二の「構図」を切り取って作品化し、独自のモダ
ニズムへと傾倒していきました。

ムンクと再び向き合って、抽象の「先」を見出そうと。
1950-60年代、世界の美術界の主流が抽象表現だった中、斎藤清はその体現者として駆け抜けま
した。
しかし、1960年代半ば、京都などを描いた自らの抽象表現に懐疑的になり、深刻なスランプに陥っ
てしまい、
「ああ、こんな絵を描いていて、一体俺はどうなるんだろうと思ったら、急に描けなくなった。
こわくて、三ヶ月間アトリエにも入れなかった」と、斎藤清。
そんな時です、エドヴァルド・ムンクの作品と再び向き合うことになったのは。
1940年代前後、若き日に描きためたクロッキー、そこに描かれていたもやもやとした描線、ムン
ク作品を模写したデッサンの数々、これらがスランプ脱出のきっかけとなりました。

ムンクを通して、新しい斎藤清を見つけてください。
1960年代後半、若き日のクロッキーを通して、ムンクと再び対峙し、それまでの抽象化の過程で
は当たり前のように切り捨てていた線や線の重なり、影などの見直しを試みました。
その結果、風景や事物の中にある精気、あるいはそこに息づく人々の思いなどをすくい取ること
を見出して ──。
斎藤本来の「単純化」と「構図」、そこにこうした対象の「内面性」をどう描こうとしたので
しょうか。
例えば、『会津の冬(71) 若松』。
「この絵は好きなんだ。寂しげだろ。静まりかえっている」と、斎藤清。
「単純化」と「構図」に、「寂しげ」という感情が矛盾なく一つの画面に同居した、自らが一つ
の到達点とした作品です。

『病める子』をはじめ、【生命のフリーズ】のコア作品を展示。
斎藤清が模写を繰り返した1894-96年制作の版画『病める子』を中心に、
この作品と同時期に制作されたムンクの数々の版画作品にフォーカスすると、自ずと、『マドンナ』『接吻』『ヴァンパイア』、さらに『叫び』など、ムンクの代表的連作【生命のフリーズ】が視界に入ってきます。

1890年代、三十代のエドヴァルド・ムンクは、油彩画【生命のフリーズ】に取り組みながら、ほぼ同時に版画【生命のフリーズ】にも着手しました。版画版【生命のフリーズ】は、日本ではほとんど知られておりません。

2017年10月7日(土)、アニバーサリー特別企画「ムンク&斎藤清」展では、
『病める子』と同時期に制作された代表的版画作品と、【生命のフリーズ】連作版画のコア作品を展示します。

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