ANOTHER ART HISTORY Kiyoshi Saito

Profile

現代美術の体現者にして、 異端者。

斎藤清―抽象とリアリズムのはざまで

斎藤清(1907-97)は、国内外に多くの愛好家を有する、日本現代版画を代表する画家の一人である。日本が占領下にあった1940年代後半から駐日アメリカ人を中心に注目されはじめ、1951年『TIME』誌上で作品がカラー版で紹介、同年10月に開催されたサンパウロ・ビエンナーレで、駒井哲郎とともに日本人初の国際美術展での受賞となる在サンパウロ日本人賞を獲得するに及び、国際的な人気と評価は決定的なものとなった。

斎藤清の作品が早くから受け入れられ、今なお多くの人々の心を魅了し続けているのは、抽象とリアリズムが共存する奇跡的なイメージにある。しかしそれは、容易に生み出されたものではなかった。

1950年代までの作品は、モティーフを簡潔なフォルムで捉え、それを厚みのある色面で構成するという、平明かつ重厚なイメージを特徴とする。加えて埴輪・古仏・京都の寺社・生まれ故郷である雪深い会津の風物といった極めて日本的なテーマに、木版画という技法。斎藤清の作品は、当時の美術界の潮流に合致した、それでいて誰も見たことがない独自のイメージを提示するものだった。

一方で、画家自身は自らの方向性に疑問を抱き始める。1960年代には、アトリエに入れなくなるほどのスランプに陥ったこともあった。その苦しみの中で、コラグラフや墨画といった未知の技法に取り組み、表現の幅を広げていく。そして、それまでの志向と逆行するかのように、版材のマチエールを強く意識した作品を数多く制作するのである。1960年代を境にして、作品は色面による構成から複雑なニュアンスを帯びたものになる。最も大きな変化は、1970年代の作品から顕著に現れるようになる、繊細なグラデーションによる陰影表現。ここに至り、斎藤清の作品は、洗練されたかたちと構図の中に奥行きと深い精神性までをも内包したものへと深化するのである。

早くから世界に認められ、1950年代から欧米を訪れ現地の芸術家とも交流を重ねていた斎藤清は、おそらく当時の誰よりも、世界の美術の動向を見据え、常に自身の表現に還元し続けた画家だった。しかもそれは単なる「鵜呑み」ではない。やはり現代日本版画の旗手として活躍していた恩地孝四郎が、「モダンリアリストだ」と称していたように、斎藤芸術の根幹はリアリズムであり、実際、常に目に見える現実の事象を題材とし、制作の際には必ず精巧なスケッチを取っていた。同時代の美術の主流である抽象表現と自身の根底にあるリアリズム。両者をどう結び付け、独自のイメージを築き上げていくのかが、斎藤清が常に自身に問いかけ続けた課題だった。

その結果が、1960年代の苦闘であり、それを経てたどり着いた陰影の発見だった。風景や事物の中に潜む精気を、絶妙の感覚で施された陰影とマチエールの豊かなニュアンスによって表出させる斎藤清の作品。今もなお多くの人々の心をとらえ続けるのは、余計なものは一切画面から排除されているにもかかわらず、そこに確かにモティーフの本質や生命感が宿っていることを、見るものが感じずにはいられないからである。

抽象とリアリズム。一方でそれは、20世紀美術が常に抱えていた葛藤でもある。70余年の画業が生み出した多彩で豊かな作品群は、斎藤清が激動の20世紀美術の体現者であることを物語っている。

誕生と青年時代まで

斎藤清は、明治40年(1907年)福島県会津坂下町に生まれた。4歳の時に家族で北海道夕張に移住、そこで成長した。この間、12歳で母を失い、継母を3人迎え、さらに本人の意思に反して寺に預けられるもののすぐにそこを飛び出すなど、幼くして辛苦を重ねながら、14歳で夕張の尋常高等小学校を卒業する。その後は小樽の薬局やガス会社に勤めた。決して平穏とは言えない日々の中、心の支えになったのが「かくこと」だった。文芸誌に童謡を投稿し、さらにそこに詩をイメージしたイラストをつけるのが最大の楽しみだったという。また、油絵を知り、独学でその技法を模索するのもこの頃である。

18歳の時、「かくことの好きだった自分に向いている」と小樽にあった看板店に就職。20歳で独立した。斎藤の看板店は軌道にのり、仕事は引きも切らなかったという。一方、絵の勉強の必要に迫られ、当地の小学校で図画を教えていた成田玉泉から石こうデッサンや油絵技法を学んだ。また成田を通して、棟方志功(1903-75)と知り合っている。

やがて「看板屋のような先端的な仕事は、一度東京を見ておかなければだめだ」と23歳で上京をする。翌年の昭和6年(1931年)には、営んでいた看板店を知人に譲り再度上京、銭湯内に並ぶ宣伝広告の制作や本のカットを生業としながら、忙しい合間を縫って自力で絵の勉強をすすめた。そして、昭和7年(1932年)、第9回白日会展に油彩画を出品、初入選する。以降、白日会や国画会など様々な公募展に油彩画を出品、実力を磨いていった。またこの間26歳で文(ふみ)と結婚、のちに長女 直子が生まれている。

木版画との出会い

そうした中、大きな転機が訪れる。昭和11年(1936年)、銀座の画廊で安井曾太郎(1888-1955)の版画作品に出会い、それに触発されて自力で木版画制作に挑戦するのである。早くも同年の第5回日本版画協会展に版画作品を出品・初入選し、さらに自身はじめての個展を小樽で開催した。翌年の第12回国画会展にも《郷の人》を含む版画2点と油彩画1点が入選している。またこの年、離郷以来はじめて会津を訪れた。あたたかく迎えられた斎藤は、すぐに多くのスケッチを描き、《会津の冬(坂下)》をはじめとする作品を制作している。以降、斎藤は会津を幾度となく訪れ、《会津の冬》は斎藤清の重要なライフワークとなった。

昭和13年(1938年)、小野忠重(1909-90)に誘われて造形版画協会の会員となる。一方で、この年は大きな挫折を味わってもいる。同年の国画会展に出品した油彩画、版画がすべて落選してしまうのである。大きなショックを受けた斎藤は、数寄屋橋のクロッキー教室に通うようになる。さらに同時期には、永瀬義郎の『版画を作る人へ』を読み、モノタイプ版画などについて学んだという。

そしてこの時期のもう一つの大きな出来事が、美術誌を通して西欧近代絵画の巨匠たちの作品を知ったことである。特にゴーギャン・ムンク・ルドンの作品には、「マッス(塊)として表現していること」「自分の絵が平面的になっていったのは、ゴーギャンの影響」というように、大きな影響を受けた。
やがて時代は、第二次世界大戦へと突入する。斎藤も徴兵こそ免れたものの、時局への協力を迫られたが、ひたすら自分の絵に専念する。 昭和17年(1942年)には銀座の鳩居堂で版画の個展を開催した。 戦争末期の昭和19年(1944年)朝日新聞社に入社。文字カットや表紙を手がけた。 この頃、恩地孝四郎(1891-1955)と交流を持ち、彼が主宰していた版画研究会「一木会」に参加したり、恩地が企画した作品集『東京回顧図絵』に《浅草風景》を寄せるなどしている。

やがて終戦を迎え、美術界も徐々に復興していく中、斎藤も再発足した日本版画協会や国画会に出品、個展を開催するようになる。そうした中で、その作品は駐日アメリカ人たちの目にとまり、高い評価を得ていくことになる。

よき理解者、アメリカ人

昭和26年(1951年)、第1回サンパウロ・ビエンナーレで、斎藤清の木版画《凝視(花)》と駒井哲郎(1920-76)の銅版画《束の間の幻影》が在サンパウロ日本人賞を受賞する。戦後初となる国際美術展での日本人の受賞、そしてともに油彩画でも日本画でもない版画だったということで、大きな衝撃を持って迎えられた。斎藤は、この受賞を機にアメリカを中心に世界的な評価を確立する。

この時期、斎藤が集中して描いていたのが、埴輪や古仏、あるいは桂離宮や龍安寺の石庭といった日本の古い文物だった。きっかけはアメリカ人にその素晴らしさを教えられてのことだったといい、「あまりにもシンプルな、究極の単純化ともいうべき構図にピシャッと目を叩かれたような感じがした」と語っている。

石庭》は、まさにこの「究極の単純化」を絵画化したような作品である。抽象表現の最たるものである「究極の単純化」が、他ならぬ日本文化の中にあったという発見と驚きが伝わってくる。

昭和29年(1954年)、10年間勤めていた朝日新聞社を退社、制作に専念する。昭和31年(1956年)には、アメリカ国務省らの招きで初渡米、個展や木版画の実技指導を行うなど各地で大反響だったという。またその間訪れたメキシコは、以降主要なテーマの一つとなった。

スランプの果てに

アメリカをはじめ国内外で毎年のように作品が紹介され、その評価・人気はとどまることなく、仕事は多忙を極めた。その一方、肩を痛めるなど肉体的な問題を抱えるようになる。またその人気ぶりゆえに「コマーシャル屋」「スーベニール(おみやげ)版画家」といわれたこともあった。

そして、昭和40年代に入ると「こんな絵を描いていて、一体おれはどうなるんだと思ったら、急に描けなくなってしまった」というように、斎藤は自身の方向性に苦悩するようになる。この頃から作品も大きな変化を見せ始める。《壁 京都(A)》はテーマといい、構図といい、一見1950年代の流れを引き継いだイメージだが、胡麻摺りや彫り目を多用した色面は、《石庭》の抽象的表現とは一線を画している。以降、斎藤は簡潔な色面構成から、画面により複雑なマチエールを加えるようになっていく。1960年代に集中して取り組むようになるコラグラフは、その最たる例の一つである。また興味深いのは、《石庭(C)》、コラグラフによる《ハニワ(F)》等、この時期に1950年代のテーマに再び取り組んでいる点である。これらを見れば、斎藤の志向が明らかに変わっていることがうかがわれる。

1960年代は斎藤にとって苦しい時代であったが、コラグラフや墨画といった未知の技法を知り、表現の幅を広げた豊穣の時代でもあった。《冬の日光(法華堂)》は、この頃に制作した初期の墨画の一つである。こうした試行錯誤を経て、自殺まで考えたという危機を乗り切る。《ヌード(G)》は転機となった作品。「お手伝いさんの顔をスケッチしていたら、若い頃のもやもやとした線が出てきて、はっと感じて、かつてのヌードクロッキーをひっぱり出してきて作った」と言い、本作でスランプから脱したとも述べている。「もやもやとした線」。平面化や単純化の過程で排除してきた表現が、作品に複雑なニュアンスをもたらすものであったと気が付いたとき、斎藤は次の段階へとステップアップするのである。

影の発見と回帰

続く1970年代は、斎藤にとって画業の成熟期であった。昭和45年(1970年)、住まいを鎌倉に移した斎藤は、鎌倉という画題を獲得する。さらに会津の風物を主題とした《会津の家》・《柿の会津》・《稔りの会津》、若い人に向けて制作したという《花と少女》、簡潔かつ鮮烈な構図が印象的な《》等の連作・新しいテーマに次々と取り組むようになる。

一方で、かつて手がけていた題材と向き合うのもこの時代の特徴である。1950年から描き始めた古仏は、《慈愛》というシリーズとなり、以降晩年にいたるまで木版画・墨画における主要なテーマの一つとなった。また同じく1950年代の重要な題材である京都も描いている。《桂(京都)》はその1点。しかし《桂 京都》などと比べると、その違いは明らかである。直線的な構成は1950年代の作品の延長線上にあるように見えるが、そこに加えられている深い陰影、暗い手前から明るい奥へと鑑賞者を導く光の表現が、単に空間的だけではない奥行きを作品に与え、この建造物が持つ深い精神性が伝わってくる。

そして、鎌倉に移った同年、若い頃から度々描いてきた《会津の冬》を再開する。このシリーズは晩年まで制作され続け、全115作を数える。最初期の作品の特徴は、白と黒のくっきりとしたコントラスト。しかし時を経るにしたがって、画面には繊細な陰影が施され、さらに圧倒的な雪の描写の中に添えられた人物や軒に下がる洗濯物が、風景に深い余韻をもたらす。特に鎌倉から故郷にほど近い柳津に移り住んだ昭和62年(1987年)に制作した《会津の冬(71)若松》では、モノトーンの世界にはためく青い暖簾と、その暖簾が戸口に落とす影が、静寂の中に人の気配を感じさせ、豊かな詩情を湛えた風景画となっている。

柳津には亡くなる平成9年(1997年)まで暮らした。晩年の10年間はいとこの渡部徳一一家をはじめ地元住民に支えられ、創作意欲は最後まで衰えることはなかった。

この時期は、《さつきの会津》シリーズ・《かすみ 慈愛》をはじめ、とりわけ会津の風物から取材した作品が多い。会津に生まれ、会津に強い思いを抱きながら、長らく異郷の地で過ごしてきた斎藤。「一年に一度か二度、通うのと住むのでは全然違う」というように、やっと真の会津人になれたという感慨が、ここには込められているのかもしれない。

年代(年齢) 斎藤清に
関すること
美術の動向 日本・世界の
できごと
1907 明治40年 (0) 4月27日 福島県河沼郡会津坂下町にて斎藤清作とその妻ルイの長男として生まれる。
二人の姉がいた。
パブロ・ピカソがキュビスムの嚆矢となる《アヴィニョンの娘たち》を発表。
第1回文部省主催美術展覧会(文展)開催。
イギリス・フランス・ロシアの三国協商が成立。
1911 明治44年 (4) 家族とともに北海道 夕張に移住する。 ワシリー・カンディンスキーらにより、第1回青騎士展開催。
前年から、『白樺』・『早稲田文学』等で相次いでゴーギャン・ムンクが紹介。
辛亥革命勃発。
1914 大正3年 (7) 夕張登川尋常高等小学校尋常科に入学する。 二科会発足。
日本美術院再興。
第一次世界大戦勃発。
パナマ運河開通。
1919 大正8年 (12) 母ルイ没。
一時姫路の寺に預けられるが夕張に戻る。
夕張登川尋常高等小学校高等科に入学する。
グロピウスらがバウハウスを創設。
第1回帝国美術院美術展覧会(帝展)開催。
パリ講和会議。
ヴァイマル憲法施行。
1921 大正10年 (14) 夕張登川尋常高等小学校高等科を卒業する。
小樽市緑町の薬局に奉公に出る。
この頃、童謡をつくり雑誌に投稿したり、イラストを描く。
文化学院創立。 ワシントン軍縮会議。
原敬首相暗殺。
1924 大正13年 (17) 北海道ガス株式会社小樽支社の見習い職工となる。
「油絵」ということばを知り自ら模索する。
アンドレ・ブルトンがシュルレアリスム宣言。 シャモニー・モンブランで第1回冬季オリンピック開催。
1925 大正14年 (18) 小樽の看板店「広告研究社」に転職。のち札幌の「宮田活動看板店」に移る。 パリ万国装飾美術博覧会開催。
アール・デコが流行。
日本で治安維持法、普通選挙法公布。
1926 大正15年・
昭和元年
(19)
父の命令で小樽に戻り、看板店を共同経営する。 東京府美術館(現.東京都美術館)開館。 昭和に改元。
1927 昭和2年 (20) 独立し、「看板のスズラン」を開業する。
小樽を訪れていた日本画家 田中針水にグワッシュ作品を携え弟子入りを志願する。
オランジュリー美術館開館。 日本で金融恐慌。
1929 昭和4年 (22) 小樽の小学校図画教論 成田玉泉にデッサンや油彩画を学ぶ。
玉泉の紹介により棟方志功を知る。
ニューヨーク近代美術館開館。
帝国美術学校創立。
世界恐慌。
1930 昭和5年 (23) 東京見物のため友人入木勝次に同行して初めて上京する。 大原美術館開館。
独立美術協会創立(翌年第1回展開催)。
マハトマ・ガンディーがイギリスに対し市民的不服従による抗議運動を開始。
1931 昭和6年 (24) 本格的に画家を目指すため、看板店を知人に譲り、再び上京する。
宣伝広告の仕事をしながら、絵の勉強をする。
日本版画協会発足。 満州事変。
北海道・東北で記録的冷害・凶作。
1932 昭和7年 (25) 第9回白日会展に油彩画を出品、初入選する。 『巴里東京新興美術展』開催、日本ではじめてフランスのシュルレアリスム作品を紹介。 満州国建国。
五・一五事件で犬養毅首相暗殺。
アドルフ・ヒトラー率いるナチスが第一党。
1933 昭和8年 (26) 第1回東光会展に油彩画を出品、初入選する。
下宿先の上谷豊次の妹 文と結婚。荏原に所帯を持ったのち上野広小路に転居する。
バウハウスがナチスにより閉鎖。
京都市美術館開館。
アドルフ・ヒトラーが首相に就任。
ニューディール政策。
日本が国際連盟を脱退。
1935 昭和10年 (28) 第10回国画会展に油彩画を出品、初入選する。 帝国美術学校から分離独立して、多摩帝国美術学校(現.多摩美術大学)創立。 天皇機関説事件。
1936 昭和11年 (29) 安井曾太郎の版画に触発され木版画の制作をはじめる。
《子供座像》《少女》を第5回日本版画協会展に出品、初入選する。
初の個展を小樽・今井呉服店で開催する。
大阪市立美術館開館。 二・二六事件勃発。
スペイン内戦勃発。
1937 昭和12年 (30) 離郷後初めて母の妹イノをたずねて会津を訪れる。以後たびたび会津を訪れることになる。
この頃から《会津の冬》を描き始める。
ピカソがパリ万国博覧会スペイン館にて《ゲルニカ》を発表。
ナチスが『頽廃芸術展』を開催。
第1回新文展開催。
盧溝橋事件、日中戦争勃発。
日独伊三国防共協定締結。
1938 昭和13年 (31) 第13回国画会展で油彩画・版画が落選、勉強不足を痛感する。
数寄屋橋の研究所でクロッキーを学ぶ。
小野忠重の誘いで造形版画協会に参加、第2回造形版画協会展に《郷の稚児》を出品する。
『シュルレアリスム国際展』開催、岡本太郎が参加。
東京帝室博物館(現.東京国立博物館)開館。
国家総動員法公布・施行。
1939 昭和14年 (32) 長女直子生まれる。
第26回二科会展に油彩画を出品、初入選する。
永瀬義郎『版画を作る人へ』を読み、モノタイプ版画を手掛ける。
新宿の月光荘クロッキー研究所に通う。
新浪漫派協会結成。
美術文化協会発会。
第二次世界大戦勃発。
ノモンハン事件。
1940 昭和15年 (33) この頃、美術誌でゴーギャン、ムンク、ルドンの作品を知り関心を寄せる。 紀元2600年を記念する行事(奉祝美術展覧会等)が開催。
ラスコー壁画発見。
日独伊三国軍事同盟締結。
大政翼賛会発足。
1942 昭和17年 (35) 版画による初の個展を銀座・鳩居堂画廊で開催する。
友人入木勝次の誘いで中国を旅行、北京でスケッチを行う。
ジャン・フォートリエが《人質》シリーズの制作を開始。 アウシュビッツなどでユダヤ人の大虐殺。
太平洋戦争(1941-45年)。
1943 昭和18年 (36) 日本版画奉公会が結成され、理事になるが、同年中に辞任する。 大日本美術報国会創立、『第二回大東亜戦争美術展』開催。 アッツ島の戦いで日本海軍の守備隊が玉砕。
学徒出陣。
1944 昭和19年 (37) 朝日新聞社に入社、『週刊朝日』の表紙やカット等を手掛ける。
恩地孝四郎と知り合い、一木会に参加する。
日本で一切の公募展が禁止。 ノルマンディ上陸作戦開始。
アメリカ軍がサイパン島に上陸。
日本本土空襲開始。
1945 昭和20年 (38) 空襲を避け、家族を会津に疎開させる。戦争終結により、雑司ヶ谷の上谷家に同居する。
6月頃、従軍画家として朝鮮半島の釜山や仏国寺を訪れる。
恩地孝四郎の誘いで『東京回顧図絵』(高見沢版画研究所)のために《浅草風景》を制作する。
行動美術協会発足。 アメリカ軍が沖縄本島に上陸。
広島、長崎に人類史上初の原爆投下。
ポツダム宣言受諾、第二次世界大戦終結。
1947 昭和22年 (40) 斎藤清版画展(東和工芸ギャラリー)開催。駐日アメリカ人の間で知られるようになる。
創刊された『国立博物館ニュース』の題字をデザインする。
ジャクソン・ポロックがドリッピング技法による制作を開始。
第1回日本アンデパンダン展開催。
第1回参議院議員選挙。
日本国憲法施行。
欧州復興計画(マーシャル・プラン)発動。
1948 昭和23年 (41) 東京アーミー・エデュケーション・センター主催の「Modern Print Exhibition」(日本橋三越)や、有楽町のアーニー・パイル劇場で開催された版画展に出品する。
練馬区東大泉に転居する。
『美術手帖』創刊。
『現代中日版画展』(日本橋高島屋)開催。
「創造美術」(現.創画会)結成。
イスラエル建国。
中東戦争勃発。
東京裁判結審、刑の執行。
1949 昭和24年 (42) 第1回サロン・ド・プランタン展に《ミルク》を出品、一等賞を受賞。 法隆寺金堂壁画焼失。
新制大学として東京藝術大学創立。
北大西洋条約機構(NATO)発足。
中華人民共和国成立。
ドイツが東西に分裂。
湯川秀樹が日本人初となるノーベル賞(物理学)受賞。
1951 昭和26年 (44) 第1回サンパウロ・ビエンナーレに《凝視(花)》を出品、駒井哲郎《束の間の幻影》とともに在サンパウロ日本人賞を受賞する。 ミシェル・タピエが「激情の対決展」を開催、「アンフォルメル(非定形の芸術)」という用語を提唱。
第1回サンパウロ・ビエンナーレ開催。
神奈川県立鎌倉近代美術館(現.神奈川県立近代美術館)開館。
サンフランシスコ講和会議、日米安全保障条約調印。
1954 昭和29年 (47) 朝日新聞社を退社。
水彩画家・春日部たすくを通じ福島県の美術界との交流が始まる。
板橋区茂呂町に転居。
『日米抽象美術展覧会』(アメリカ、リバーサイド・ミュージアム 翌年、東京国立近代美術館)開催。
グロピウス来日、『グロピウスとバウハウス展』(東京国立近代美術館)開催。
具体美術協会結成。
第五福竜丸がビキニ環礁でアメリカ軍の水爆実験により被爆。
自衛隊発足。
ヴェネツィア国際映画祭で黒澤明と溝口健二が銀獅子賞を受賞。
1956 昭和31年 (49) アメリカ国務省・アジア文化財団の招きでアメリカ、メキシコを訪問、各地の大学・美術館で実技指導や個展を開催。また画家のフレデリック・オハラからリトグラフを学ぶ。
この頃、画家のグレン・アルプスと知り合う。
第28回ヴェネツィア・ビエンナーレで棟方志功が国際版画大賞を受賞。
ローレンス・アロウェイが「ポップアート」を提唱する。
日本が国際連合に加盟。
水俣病問題。
1957 昭和32年 (50) 第2回ユーゴスラヴィア・グラフィックアート・ビエンナーレ(リュブリアナ国際版画ビエンナーレ)に《館》を出品、受賞。 ミシェル・タピエらが来日、アンフォルメルを紹介。
この頃からタピエらが具体美術協会の活動を海外に紹介。
ソ連が人工衛星の打ち上げに成功。
日本原子力研究所(東海研究所)で、日本最初の原子炉が臨界を達成。
1958 昭和33年 (51) この頃、肩を痛め、梅原勇から弟子の大津一幸を見習いとして紹介される。
以降、徐々に摺りを任せるようになる。
日展が社団法人として発足。
『新しい絵画 世界展-アンフォルメルと具体-』巡回開催。
東京タワーが完成。
1959 昭和34年 (52) アメリカ人実業家のC・V・スターに招待されて訪仏、11-12月の間パリに滞在する。 国立西洋美術館開館。
グッゲンハイム美術館開館。
キューバ革命。
皇太子明仁と正田美智子の結婚式、テレビで中継。
1962 昭和37年 (55) C・V・スターがパトロンとなり、二度目の渡米、各地で木版画の個展を開催するほか、ワシントン大学で木版画を教える。また同大学で教鞭を取っていたグレン・アルプスからコラグラフを学ぶ。
日本版画協会を退会する。
アンディ・ウォーホルが《200個のキャンベルスープ缶》を発表、アメリカでポップアートが流行。 キューバ危機。
1963 昭和38年 (56) 三島町出身の日本画家・酒井三良と春日部たすくとともに朴人会展を開催、水墨画13点を出品。墨画に興味を感じる。 高松次郎・赤瀬川原平・中西夏之により「ハイレッドセンター」結成、最初の展覧会を開催。
ナム・ジュン・パイクが世界初のビデオアート展を開催。
ワシントン大行進で、キング牧師が「I have a dream」演説。
ケネディ大統領暗殺。
日米間の衛星中継に成功。
1964 昭和39年 (57) ハワイ大学芸術祭の招きでハワイを訪れ、6週間滞在。
斎藤清版画展(ホノルル美術館)が開催され、木版画及びコラグラフ作品をホノルル美術館に寄贈。
日本漫画家協会結成。
東京オリンピックのプログラムの一環として、東京国立博物館等で芸術展示を開催。
東京オリンピック・パラリンピック開催。
アメリカで公民権法が施行。
トンキン湾事件、アメリカがベトナム戦争に本格介入。
1965 昭和40年 (58) 斎藤清チャリティー版画展開催のためオーストラリアを訪れ、国立美術研究所で木版画実技を公開。
帰途タヒチに寄る。
リチャード・ウォルハイムが「ミニマル・アート」を提唱。
東京国立博物館等で『ツタンカーメン展』巡回開催。
日韓基本条約調印、韓国との国交正常化。
佐藤栄作首相が戦後総理大臣としてはじめて沖縄訪問。
文化大革命勃発。
1967 昭和42年 (60) 『TIME』誌の表紙を手掛け、《佐藤栄作首相肖像》が2月10日号に掲載。
インド文化省主催による斎藤清版画展の開催のためインドを訪問。
柳津町に住むいとこの渡部徳一・ヨシノ夫妻と出会い、以降雪を描きに毎年柳津を訪れる。
イタリアで『アルテ・ポーヴェラ,IM空間展』開催。 ソユーズが着陸に失敗。初の宇宙飛行による死亡事故。
日本で公害問題が表面化、公害対策基本法公布。
東南アジア諸国連合(ASEAN)結成。
1970 昭和45年 (63) 大韓民国を訪問。
鎌倉市西御門に転居(のち長谷に移る)。
神奈川県立近代美術館で大規模な『ムンク展』開催。 日本航空機よど号ハイジャック事件。
大阪万国博覧会開催。
作家の三島由紀夫割腹自殺。
1976 昭和51年 (69) 柳津町名誉町民になる。 東京国立近代美術館で大規模な『キュビスム展』開催。
この頃から、新表現主義(ニュー・ペインティング)が流行。
ロッキード事件、田中角栄前首相らが逮捕。
南北ベトナム再統一、ベトナム社会主義共和国成立。
1977 昭和52年 (70) 『TIME』誌の表紙を手掛け、《福田赳夫首相肖像》が3月28日号に掲載。
チェコスロヴァキア国立美術館主催の斎藤清展開催のためプラハを訪れる。
山梨県がミレー《種まく人》等を購入。
国立国際美術館開館。
東京国立近代美術館工芸館開館。
文化大革命終結宣言。
日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件。
1981 昭和56年 (74) 秋の叙勲で勲四等瑞宝章を受章。 日本初紹介となるグスタフ・クリムト展が新宿・伊勢丹で開催。
高松塚古墳壁画の修復作業が完了。
東京国立近代美術館・京都国立近代美術館で大規模な《マチス展》開催。
レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》の修復作業が完了。
スペースシャトルコロンビア初飛行、宇宙に到達する。
エイズ患者が確認される。
チャールズ皇太子とダイアナ妃結婚。
1983 昭和58年 (76) 《会津の冬(51)山口》が優秀美術作品として文化庁買上となる。 ボロブドゥール遺跡の修復作業が完了。
国立歴史民俗博物館開館。
キトラ古墳で彩色壁画発見。
インターネット開始。
東京ディズニーランド開園。
任天堂がファミリーコンピュータ(ファミコン)を発売。
1987 昭和62年 (80) 妻 文の健康状態が悪化、鎌倉から柳津町に移り住む。 町田市立国際版画美術館開館。
ゴッホ《ひまわり》を安田火災が58億円で落札。
JR発足、国鉄事業継承。
大韓航空機爆破事故。
米ソが中距離核戦力全廃条約に調印。
1991 平成3年 (84) 妻 文、会津若松市の病院で没。 桂離宮の解体修理作業が完了。
京都造形芸術大学開校。
ペルシア湾岸戦争勃発。
ソビエト連邦崩壊。
1995 平成7年 (88) 平成7年度文化功労者に選出。 東京都写真美術館開館。
東京都現代美術館開館。
安藤忠雄がプリツカー賞受賞。
阪神・淡路大震災。
地下鉄サリン事件。
沖縄米兵少女暴行事件。
マイクロソフト社がWindows95を発売。
1997 平成9年 (90) やないづ町立斎藤清美術館開館。
11月14日、肺炎のため会津若松市内の病院で没。享年90歳。
法隆寺の百済観音像がルーブル美術館で展示。
国立博物館などの独立行政法人化が決定。
世界初のクローン羊開発に成功。
ペルー日本大使館公邸占拠事件。
香港返還。
京都議定書採択。