絵画へのあこがれ
版画との出会い
看板制作からはじまり、独学で飛び込んだ絵画の世界。
偶然目にした安井曾太郎の木版画が、
画家の人生を決定づける。
この頃から描き始めた《会津の冬》は、
生涯のテーマとなる。
Saito Kiyoshi
世界を席巻する
- 「自分の絵が平面的になっていったのはゴーギャンの影響だと思う」
- 「龍安寺の石庭の、あまりにもシンプルな、
究極の単純化ともいうべき構図に目を叩かれた」
共感したのは、ゴーギャン・ムンク・ルドンの表現。
注目したのは、埴輪・仏像・石庭や古建築のフォルム。
西欧近代絵画のエッセンスと日本の伝統文化の中に息づく美意識。
両者が画家の中で一つになったとき。
研ぎ澄まされたかたちと鮮烈な色面構成。
世界を魅了したイメージが誕生する。
苦悩と豊穣の時期
- 「こんな絵を描いて、一体おれはどうなるんだと思ったら、
急に描けなくなってしまった」 - 「お手伝いさんの顔をスケッチしていたら、
若い頃のもやもやとした線が出てきて、
はっとしたんだ」
高まる評価と人気の一方で、
進むべき方向に迷いが生じる。
50年代の自分に逆行するかのように、
色面を木目や胡麻摺りで埋め、
未知の技法、コラグラフ・墨画に挑む。
表現の幅が広がる中で見出したのは、
平面化や単純化の過程で排除してきたはずの、陰影。
画家は、ターニングポイントを迎える。
影が生まれた
回帰と深化
- 「会津の冬を描くようになったのは、
ふるさとに対する郷愁ではない、
構図なんだ」 - 「鎌倉の作品では、自分の構図を探すのに
苦労した」
陰影がもたらす奥行きと存在感。
そこに至ったとき、画家は50年代の画題と
再び対峙する。
構図とかたちはさらに研ぎ澄まされ、
卓越したグラデーションによる陰影に、
深い精神性が宿る。
一方で、新たなシリーズにも取り組む。
1970年から移り住んだ鎌倉は
重要な題材の一つとなり、
全115作に及ぶ《会津の冬》がスタートする。
画家が生み出すイメージは、
深みと広がりを増していく。
画家にとっての会津
想いと重み
- 「どこが自分のふるさとかと思うことがあった。
どこかエトランゼとしての感覚が心の底にオリのように残っていた」 - 「雪の厳しさが分かってきたから、
こんな寂しげな絵になったんじゃないかな」
幼少期に離れて以来、何度も訪れてはいても、
暮らすことはなかった会津。
1987年、鎌倉から会津・柳津に移り、
晩年の10年間を過ごす。
老いてもなおひたすらに、その風物を、そこに生きる人々を見つめ、スケッチを重ねる。
当初画家の関心は、あくまでも風景に潜む構図やかたちにあった。
しかし、表現の深化とともに、
故郷に対する画家の複雑な心境が滲む描写へと変容していく。
会津人にしてエトランゼという感覚を抱きながら、最後まで描き続けた会津。
そのイメージは、見る者にやみがたき郷愁を喚起する 「原風景」 となる。
あやしい魅力として映った」